夢が終わるとき 第三部

松前杏子様

ライン

〜And Then

空に浮かぶ全てが消えたとき。
世界は白紙に戻り、全てはあるべきところに帰る。
だから少女は帰った。
だから少年は残った。
だから、世界の秩序は守られた。

 はあはあはあ………
 荒い息だけが、静まり返った部屋の中に響く。俺は何とか息を静め、深いため息をついた。今日はこれで朝から15度目の召喚魔法の失敗だった。すでに日は沈みかけ、俺のいる部屋の中を薄墨色に染めていく。俺の手から流れ落ちる血の色だけが、やけにリアルであった。
 左腕の、上腕部分から手の先にいたるまでの無数の裂傷は、全て魔法の失敗による反動であった。制御しきれなかった力は暴走し、直接術をかけた本人のもとへと帰る。滴り落ちる真紅のしずくに顔を近づけて、舌でからめとる。苦い鉄の味が、喉元を駆け下りた。治癒魔法をかけ、応急処置を施す。これだけの傷を癒す力は、今日はもう残っていなかった。明日にまわすしかないだろう。
 いつまで経っても発動しない魔法陣の中央に立ち、目を閉じる。乾ききらない血の跡が、てんてんと後に続く。息をつき、心の中で彼女を想う。

 ぼうっと焦点の定まらない目つきで、あたしは窓から空を見上げていた。良く晴れて空は澄んでいたが、あたしはそれらを見ていなかった。何も、見ていなかった。部屋の中に立っているあたしの母も、部屋の中に飾られている大きな花束も、あたしが身につけている純白のドレスも、頭にかけられている繊細なレース織りのヴェールも、何もかも見ていなかった。
 ひどく近くで鐘の音が聞こえる。今日はどうやらあたしの結婚式らしい。自分でも良くその経緯を分かっていなかった。ただ1ヶ月前ぐらいからあたしの周りが騒がしくなり、頻繁に外に連れ出されるようになった。それまでは、あたしを腫れ物を扱うかのようだったのに。
 心のどこかで、何かがそれらに抗っていたが、あたしは気にも留めなかった
。気に、留めたくなかった。
 母があたしに向かって、何か言っている。窓から目を離し、彼女に目をむける。
「幸せになりなさい、メイ。お相手の方はそれはそれは良い人なのだから」
 あたしはそれに、静かに微笑んだだけだった。何も、考えていなかった。ただただあいつを想うばかりであった。

 ずきりと胸が痛む。何かが俺を急かす。はやくはやく、何かをしなければ。今はやく何かをしなければ、全てがとり返しのつかない事になるような気がする。―――何を?
 ………分からない。何故だろう?だが理屈など、もうどうでも良かった。俺は今何かをしなければならないのだから。感情が、心が、本能が、全身でそう叫んでいる。
 今俺にできる事といえば―――
 再び召喚魔法の呪文を唱え始める。えらく長いその魔法は、3年のあいだすっかり暗記してしまっていた。今では自分でオリジナルのに改良を加えて、自分独自の召喚魔法を作っていた。
 それはオリジナルのものより数段魔力を使う為、失敗したときの反動もまた、それに比例する。この3年間で、俺に左腕は見かけはマトモでも、実質ボロボロだった。だから一日に実行する召喚魔法の回数を、制限しなければならなかった。
 今日はもうその回数に達していた。これ以上やると、左腕が使い物にならなくなる可能性が高かった。だから今日はもうお終いにしようと思ってた。だが。
 だが今は。腕の1本や2本がどうなろうと良かった。それよりももっと大切なものが、今まさに失われようとしている。確信はなかった。だがなんと言って良いのであろう、口では説明できない何かが俺を突き動かしているのだ。だから、呪文を唱え続ける。
 魔法の負荷に耐え切れなくなった左腕の傷が再び開き、血が魔法陣の上に滴り落ちる。光が魔法陣から発し、暗かった部屋を黄金色に塗りかえる。だが今回はいつもと違い、光は消えずにそのまま膨れ上がる。いつもとは違うその反応に俺は目をみはり、心はもしや、と言う感情に揺れ動く。だがそれでも呪文を途絶えることなく唱え続けた。
 その光が最大限にまで膨張し破裂する瞬間、俺は目を閉じた。その先にあるものを、俺は信じて疑わなかった。

 一般にヴァージンロードと言われている、全国の乙女達が憧れているものを歩いているときでも、あたしはただぼうっとしていた。あたしの手を誰か知らない男の人が引いている。何度か名前を聞き、顔も見たはずなのに、全くもって見覚えがない。現にその人の顔は、あたしにはへのへのもへじにしか見えず、彼が話している言葉は理解できなかった。だがそんなこと、あたしにはどうでもよかった。
 母が、父が、弟が、不安げな表情であたしを見ている。彼らにそんな顔をさせている事に、心の一番深いところがじくりと疼く。だがそれはあまりにも深すぎて、あたしまでには届かなかった。
 ただあたしには、長いドレスの裾が煩わしいと感じているだけ。髪にかかるヴェールが邪魔だと感じているだけ。持たされているブーケを捨てたいと感じているだけだった。
 あともう少しで十字架を首にかけ、聖書を手に持っている神父のところにたどり着く。全ての意味を、あたしは理解していた。理解しているつもりだった。だが頭の一部にかすみがかかったようにぼんやりとしていて、何かを考える事はひどくおっくうであった。だから、あたしはただ笑っていた。
 隣にいた男の足が止まる。手を引かれなくなったから、あたしも止まった。神父がなんだかごちゃごちゃと言っている。それに対してかかし男も異世界語で何か話した。神父が再び何かを言い、今度はあたしに問い掛けてきた。
 いつまで経っても返事をせずぼんやりとしているあたしに神父は焦れたのか、もう一度繰り返す。あたしは良く分からなかった。何も考えたくなかった。だからにっこりと笑い、そして頷こうとした。その時。
 教会全体を強烈な光が覆った。どこかで見た事のある光に、あたしの意識は一瞬覚醒する。胸がなぜだかどきどきする。きっと、何かが起こる。きっと、何かが変わる。きっとあたしが望んでいたものが、実現する。

 光が目に優しくなったとき、俺はゆっくりとはじめて目を開けた。そこは神殿に似ているようだったが、だが確実に違う場所であった。それで、自分の方が転移した事が分かった。不思議だとは、何故か思わなかった。ああやっぱり、と何故か思った。
 俺の前方に、純白のきれいに装った一人の少女がいる。3年前とは姿かたちは違っていた。だがすぐにそれが誰だか分かった。何故なら彼女こそが俺がずっと焦がれてきたひとだったのだから。そとみは変わっても、心は何ら変わっていないと知っていたのだから。
 動悸が早くなる。心が求める。想いが急かす。瞳は彼女のみを映し出し、全てが変わる。だから、だから、だから。だから俺は声を限りに叫んだ。

「――――――メイッ!」

 自分の名前を、ずぅっと待ち望んでいたその人の声で呼ばれ、あたしは振り返る。もう、すぐにそれが誰だか分かった。まさかとは思わず、来てくれたんだ、との思いがあたしを支配する。なぜだか自然にそれを、受け入れていた。
 声を聞いた途端、頭が急速に冴え、そして視界がクリアになる。なんだか久しぶりに自分に戻ったような気がする。久しぶりに物を見た気がする。久しぶりに音を聞いた気がする。
 心がはやる。想いが向かう。はやく、はやく、はやく。はやくあいつの姿がみたい。自分の動作がひどくゆっくりに感じられ、自分の全てがもどかしかった。
 振り返った瞳に移るのは、何度も想ってきたあいつの姿。3年前とは随分変わったと感じられる。ひどくやせ、ひどくぼろぼろで、なぜだかひどく傷ついていた。だが心は変わっていないとすぐに分かった。なぜならあたしがずっとずうっと想ってきた人なのだから。

 俺は振り返った彼女を見つめた。彼女の瞳が、俺を捕らえる。俺も逸らす事なく、見つめ続ける。

 あたしは強い光を秘めたあいつの視線を受け止めた。そしてあたしもあいつに返す。逸らす事なく、見つめ続ける。

 絡み合う、翡翠と茶水晶。世界は一瞬、静止する。

 俺は気づいたら、彼女の方へ駆け出していた。もう、何も考えられなかった。ただひたすら彼女のもとへ、駆ける。

 あたしは気づいたら、あいつの方へ駆け出していた。手に持っていたブーケも、邪魔なヴェールも、高いヒールのくつも、全て投げ捨てて、心と身体は一直線にあいつのもとへと駆ける。

 ヴァージンロードの中央で、二人は抱き合い、そしてくちづけを交わす。周りは誰も、動かなかった。周りは何も、言わなかった。ただただ息をひそめて二人を見守るばかりであった。なぜだか二人を邪魔してはいけないと、思った。何故だかそうしている二人がとても神聖なものに、見えた。だから彼らは見ているしかなかった。
 くちづけを交わした後、少女は自身の家族の方へ、これ以上ないと言う最高の笑顔を向けた。そして抱き合っている青年の腕を軽く引っ張った。
「この人があたしの大切な人なの!…だからごめんね、あたしは行きます」
 少女の言葉に母親は、父親は、弟は、穏やかな顔になり、微笑みを浮かべながら少女に頷いた。隣の青年は、ただ静かに彼らに頭を下げたのみであった。そんな彼に、少女の家族達も何も言わずに、頭を下げた。
 次の瞬間再び光が拡大し、あたりを覆う。光が完全に消えた頃、二人の姿もなくなっていた。誰も、動けなかった。何も、言えなかった。ただその場に起こった出来事を眺めているしか、できなかった。ヴァージンロードに転がった、ブーケとヴェールと白いくつのみが、それが夢ではない事を伝えていた。

 世界が元に戻るとき、夢も終わる。
 人々は夢から醒めて、現実を直視する。
 その先にあるものを決めるのは、彼ら。
 選択権は彼らにある。
 全てはあるべきところに帰る。
 だから、世界は動いている。
 だから、世界の秩序は守られる。
 夢が終わるとき、それを真実と変えることができるかは、世界の秩序を変えることができるかは、全て、彼ら次第なのだ。

ライン

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