星がころんと落ちた時。
全てが逆転し捻れ、歪み、そしてひずんでいった。
あっと思う間もなかった。
大好きな大好きなあいつの姿が見えなくなったと思った途端、あたしは地面に放り出された。
あたりを見回すと、懐かしい学校の校門前。
帰ってきたんだ、という思いではなく、帰ってきてしまった、との思いが強くあたしを支配する。
全ては一瞬の、出来事だった。
あちらの世界から帰ってきて、そろそろ一年が過ぎようとしていた。最初の半年間は自分でもなにをやっていたんだか、今でもよく思い出せない。とにかく無気力で無関心で無頓着で、何事に対しても興味を持てなくなっていた。だがあれから一年が過ぎた今、あたしは考えるという事を始めた。
目を閉じ自分の考えに深く沈む。だが思い出すのは緋と茶の幻像、そしてガラスの音。そして強く思うことは後悔の念。全てが渦巻き、あたしを包み込む。その凄まじいまでの圧迫感に耐え切れなくて、小さくうめいて目を開ける。
途端緋と茶の幻像は消え、当たり前の日常が目の前に展開する。
ベットの側の、あいつを思い出させるような茶色の絨毯の上で、呆然と座り込んでいた。数秒そうした後、自分のほほを流れ落ちる、冷たくも温かいものに気づく。今までこちらに戻ってきてからそんなことはなかったし、今までのあたしならそれを許す気にもなれなかった。だが今は。
今はそれを何故だか許していた。鳴咽がのどを伝う。ぼやけた視界の中に見えるのは、緋と茶の幻像。泣いてあいつの姿が見えるのなら、泣くことも悪くはないと、麻痺した頭の隅でぼんやりとそんなことを思う。
声に出して泣く事は、それでもできなかった。声に出してしまえば、この胸に抱えている想いをぶつけてしまうから。壊してしまうから。無くしてしまうから。声に出すことによって想いのかけらが胸から零れ落ちてしまわないように、あたしはきつくきつく唇をかんだ。破れた唇から真紅のしずくが流れ落ちるのにも構わず、ずっと、そうし続けた。
何も、言ってないよ。
あたしまだ、あいつに何も言っていないのよ。
ねえ、どうして?
こんなことになるなんて分かっていたら、もっと早くに言ったのに。
あいつを捕まえて。あたしの方に振り向かせて。
そしてこの想いを伝えたかったのに。
でもまだあたし何も言ってない。
何も、言えなかった。
すき、の二文字すら言えなかった。
うつ伏せになり、必死で声を押し殺していた。涙がほほを、鼻を、あごを、のどを伝い、手の甲に落ちて小さな池を造るようになっても、あたしは声をあげなかった。この想いを、守りたかったから。それが今のあたしにできる、精一杯のことだったのだから。
風が出てきてあたしの濃い茶の髪をなぶる。そろそろ気温がさがりはじめ、あたりは寒さを増してきた。それでもあたしは自分の家の屋根の上に座りこみ、空を見上げていた。この空だけが、あちらの世界と何ら変わるところがない、唯一の、ものだった。この空を見ている時だけは、あたしはあちらの世界に行く事ができた。
身体はたとえここにあっても、心は必ずあいつのところへと向かう。空を駆け、時を駆け、そして時空を駆けて、あいつの元へと向かっていく。そしていつもあたしはあいつにささやく。
すき。
あの時言えなかった言葉。それを何度も何度も繰り返す。二度と後悔をしないように、あいつを見るたびそう、ささやく。
自分の手のひらを見つめ、頭の中で素早く構成をし、口の中で呪文を唱える。完成すると同時に口を開く。
「ファイアーボール」
だがかすかに手のひらが熱くなっただけで、あとはいつもとは違い、なにも起こらなかった。既に何度も試し、そしてその度出る同じ結果をあたしはぼんやりと見ていた。
こちらに戻ってきてから、あたしから急速に魔法力は失われていった。そのことに焦った。だって、自分が身につけたこの魔法力こそが、今あいつとあたしを結び付けているたった一つのものだったのだから。何とか取り戻そうと、色々なことを試した。だがそれらは何一つとして成功はせず、魔法力はそんなあたしの努力を嘲笑うかのように消えてなくなった。
それが、ひきがねだった。その事で、あたしは全てがどうでも良くなっていた。全てが投げやりになった。魔法力を無くしたという事は、あたしとあいつの接点がなくなったというだけでなく、あちらの世界に帰れる可能性をこっぱ微塵に砕いてしまったという事に等しかった。だから魔法力がなくなった今、あたしはあちらの世界に戻れる術を失ってしまった。それだけが、たった一つの希望の星だったというのに。
全ては偶然から起こったこと。
だがその偶然が、なんとあたしに大きな影響をもたらしたことだっだろう。自分がたった一人の為だけに、ここまで弱くなってしまうなんて思いもしなかった。心が求めているのはただ一人。想いは出口を失い、あたしの中で今にも破裂しそうだった。
こんな苦しい思いを味わうのなら。
あんな偶然など要らなかった。いっそ全てが夢であったのなら。この苦しみも、胸のこの焼け付くような痛みも、夢から醒めれば全て無くなっていたのだろうか?反問し自問し、そしてあたしは否定する。
この苦しみがすべてなくなる代わりに、あいつのことを忘れるというのなら、あたしは喜んでこの苦しみを背負うだろう。どんなに苦しくても、それだけは譲れない。
いまさら、だった。全てがいまさらだった。答えの分かっている問いに、一体何の意味があるのだろう?
ふっと笑い、そのまま身体を後ろに傾け、屋根の上に仰向けになって転がった。すると今よりもずっと空が近くなり、そして心も今よりもずっとあいつに近くなる。目を閉じつぶやくのは、ただ一言。
"会いたい……"
想いは実際には言葉にはならず、虚空へと漂い、そして消えていった。
それから更に二年以上の歳月が、あたしの上を通りすぎていった。濃い茶の髪は腰まで届き、茶水晶の瞳はさらに愁いを帯び、そして身体は大人の女性のそれへと変わっていった。目に見える変化はあたしには訪れたが、目に見えない変化は何一つとして訪れなかった。心は三年前のあの時から、何ら変わることはなかった。
今のあたしは生ける屍。
あいつがいないなら、全ては同じ。
あたしにできることは、この想いを守ることだけ。
口を開けばこの想いがこぼれてしまいそうで、目を開けばあいつの姿が薄れてしまいそうで。日増しにあいつから遠ざかっていってしまいそうで恐くて、言葉を発していても話していないに等しく、目を開けていても見ていないに等しかった。
今のあたしに、一体なにができるの?
魔法力のない自分など、何の役にも立たなかった。あいつと会う努力はまったく報われず、今は努力することすら取り上げられてしまった。あいつがいたからこそ動いていた、あたしの世界。あいつがいない今、それは止まったままだ。
おかしくて、涙が出そうになる。
いつだったか、誰かがあたしを指して強い娘だ、と言った事がある。でもその人は、今のあたしを見たら一体何と言うだろう?弱くなった、お前らしくない、とでも言うのだろうか?でもねえ、強いってなに。何を指して強いって言っていたの。あたしの何を見て、強いと言っていたのよ。
会いたい会いたい会いたい。
あいつのぶっきらぼうな声が聞きたくて。
翡翠のような緑の瞳に見つめて欲しくて。
細いけど以外と強いあの腕で抱きしめて欲しくて。
いっつも会えば喧嘩ばかりしていた、あいつに会いたい。
まだ何も言ってないのよ。
まだ何も始まってないのよ?
だから会いたいの。会わせてよ。
ねえ。
どうすればあいつに会う事ができる?
静かな水面に一滴落とした黒いしずく。それは波紋のように広がっていき、全てを侵食する。この想いはあたしを捕らえ、そしていつまでも離さない。あたしも自ら進んでその想いに囚われ、そして身を委ねた。それがあたしにとってあいつと会う事のできる、唯一の方法だったのだから。
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