夢が終わるとき 第一部

松前杏子様

ライン

〜Kiel Seyian

 月がぱりんと砕けたとき。
 彼女も一緒に消えていなくなった。
 全ては一瞬の出来事。
 俺はそれらを呆然と見ていた。
 何もすることができなかった。
 そうして初めて気づく。
 自分の胸に走る大きな痛み。
 自分の抱える大きな思い。

 彼女が10月に、あちらの国に帰った。全ては唐突の出来事だった。周りの皆は呆然としていたし、そしてこの俺も例外ではなかった。何故か悲しい、という気持ちはなかった。あるのは、ただただ虚無的な喪失感だけだった。しかし俺はその意味を正確に、把握していた。
 悲しくないのに、涙が出るのは何故だ?
 悲しくないから。
 哀しいから。
 ―――なにが?
 ばんと魔導書を壁に叩き付ける。肩で息をつきながら、俺はこの苛立ちを消せないでいた。少しの間呆然としてから、そのいまし方投げつけた魔導書の方へ歩く。埃を手で払いながら、大事そうに俺はそれを取り上げた。それは彼女がいなくなるまで使っていた魔導書だった。
 それをぱらぱらめくりながら、俺はある一つの決心をした。

 俺の努力を皆が笑う。あのくそったれ能無し魔導士達が、ばかにする。それでも俺は止めなかった。否、止める気など毛頭無いのだ。たいして物も食わず、たいした睡眠もとらずに繰り返す俺を見て、親しい者の何人かは俺を止めようとした。しかし彼らの忠告を無視してただただ繰り返す俺を見て、やがて諦めたような顔をして、皆俺から去っていった。
 いや、ただ一人だけ、去らなかったやつがいた。俺の肉親、俺に最も近いやつ、兄のアイシュだ。あいつは他の奴等の様に、俺になんやかんやとは言ってこなかった。ただ、悲しそうな目をして、俺を見つめるだけだった。双子なだけあり、アイシュの言いたいことは、あいつが何も言わなくても、俺には分かった。
 だがもう、俺にはどうすることもできなかった。この、一度気づいてしまった気持ちは膨れ上がり、そして出口を求めてさまよっているのだ。この思いが欲するのはただ、一人。濃い茶の髪と、薄い、茶水晶のような瞳を持つ、あの少女だけ。
 だから俺は繰り返す。何度も何度も、繰り返す。
 そう―――召喚魔法を。
 再びあの少女をこの手に取り戻す為。
 あのときの偶然を、必然に変える為。
 1000に近い数だけ日が昇り、そしてやはりそれに近い数だけ月が昇っても、俺は繰り返した。魔法は俺の上に通った月日の数だけ、失敗した。それでも俺は、止めなかった。

 ばさりと緋い肩掛けを、翻した。薄茶色の髪をかき回し、そしてため息をつく。そして手近にあったものを、力任せに払った。がしゃりと音を立てて、燭台とチョークが転げ、そして砕ける。チョークが割れたときに出た薄白い煙の中で、俺は呆然と佇む。
「……くそっ!」
 なぜ成功しない?
 なぜ彼女を召喚できない?
 なぜ?
 なぜだ?
 何がいけないのだ!!
 思いっきり右のこぶしを壁に叩き付ける。その衝撃で、皮膚が裂けそして血がにじむ。それでも構わず俺は何度もこぶしを壁に叩き付けた。何度も、何度も。そうして痛みが実感できるまで、何度も繰り返した。
「とんだ道化者だ、俺は」
 自嘲気味に、口に出す。だがそのとき、自分の頬を伝っているものに、気づく。やけにしょっぱい、そのものは。左の手の甲で乱暴にそれをぬぐうと、俺は不思議そうにそれを見た。
 なんだ、これは?
 涙、か?
 この俺が、泣くというのか?
「―――――っ!!」
 諦めていない!諦めていないのだ!!彼女を召喚することを、俺は諦めていない!!可能性はゼロではないのだから!だから、これは悲しくて泣いている訳ではないのだ。自分の力がまだまだ未熟だから、それが哀しくて泣いているのだから。
「―――ははっ、はははっ……」
 何日もまともな食べ物を通していないこののどからは、もはや乾いた笑い声しか出てこなかった。ごろり、と床に転がる。冷たい石造りの床が、やけに気持ちがいい。手の甲で、目を覆う。溢れてくる涙はそれでも止まらなかった。
 心のどこかで悟っている。
 悟ってしまっているのだ。
 彼女はもはやこの俺の手には戻らないと。
 彼女の俺の名を呼ぶ声はもう二度と聞けないのだと。
 彼女が俺の前に現れることはもう――――ないのだと。
 だが認めたくない心はそれには従わず、ただひたすら実験ばかりを繰り返していた。それが無意味なことだというのは、百も承知だ。それでもやらずには、いられないのだ。
 あの時なぜ気づかなかったのか。
 あの時なぜ彼女を引き止めなかったのか。
 あの時なぜ俺はただ見ていただけなのか。
 後悔の念ばかりが俺を苛む。なぜ、なぜ、なぜ――そればかりが俺の中でこだまする。
「くっ……」
 嗚咽が漏れる。俺達はどうしてあの日であってしまったのか。どうして俺は実験に失敗して、彼女をよんでしまったのか。こんな結末が待っているのだというのなら、出会わなければ良かった。いっそ、これら全てが夢であったら良かったのだ。
 あの、彼女が俺の側にいた、とても楽しいときが全て夢であったのなら。夢が終わったとき、俺は諦めることができたというのに。だが俺は。夢ではないと知っている。彼女がいたことは、かけがえの無い真実なのだ。

 だから俺はこうして諦められない。
 いつまでも彼女を想っている。
 何度も召喚魔法を繰り返す。
 夢が終わった今でも、それは続いている。
 そうして気づく。
 俺がどんなに彼女を愛していたのかを。
 否、いるのかを。
 心はいつまでも彼女に囚われたままで、俺は生涯を過ごすだろう。
 彼女以外は絶対誰も想わない。
 それこそが、彼女が俺の側にいた証しなのだから。

ライン

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