未だ若木に過ぎないエーベの樹が、それでも確かな力を秘め、対立する二つの深みである天と地を結び付けた。
北の大国ダリス王国。大地はまだまだ疲弊していたが、かつて大地を覆っていた『七色の花』はその姿を消した。代わってアンヘル族の少女の瞳を思わせる、みずみずしい新緑が、雪の下から顔を覗かせている。大地は、ただ嘆くのを止めたのだ。
王国暦1026年春、古き血を持つ若き王を戴いた、戦の爪痕も生々しいダリス王国、エーベの樹の御前にて、先の戦いで同盟を結んでいた国々との間に異例ともいえる条約が結ばれた。
ダリスの僭王(エーベの樹を冒涜した先王を指す)に対する同盟の盟主でもあった、隣国クラインの皇太子、セイリオス・アル・サークリッドが提案し、彼の腹心たちが草案をまとめたその条文では、難民の庇護・定住を確保するため、法的地位、就職、福祉について詳細に定められていた。対象となるのは、国を持たぬ者、そしてなんらかの事情で母国を離れ帰国が困難な者。
今日では、先の戦乱でダリス王国から逃げ出し難民と化した民を、そしてアンヘル種族を保護するための国際条約だと一般に認識されている。
ダリスの魔法兵器製造の犠牲にされ、極端にその数を減らした少数民族アンヘル種族。 その魔法力の高さ、希なる美しさから精霊にも喩えられ、分化を終えるまでは性別すら持たない彼ら。闇にて非常な高値で取り引きされると噂される彼らは、自らの国を持たない。その彼らを違法な人身売買および非人道的な実験等から守り、条約に参加した国々の国政に参加する機会を与えるための法であろうと・・・。
「それがたとえ、このワーランドに現存する母国を持たぬものであろうとも、定住を希望し国政に参加する意思のある者であれば、この法の元に保護される」
条文は、この言葉で締めくくられている。
王国歴1025年、10月。クライン王国、王都。
「もうっ!信じらんないっ!」
魔法研究院、キール・セリアンの部屋のドアが、悲鳴を上げた。
理由ははっきりしている。メイが苛立ち紛れに乱暴に閉じたのだ。叩き付けるように。 キールの隣室の魔導士が音を聞きつけて、何事かと飛び出して来た。
半分寝ぼけたまま、ドアの無事を確認すると安堵の表情を浮かべる。が、すぐに恐怖のそれに代わる。
「ちょっと!キール見なかった?」
苛立った口調のメイの視線が、真摯を通り越して、殺気すら放っているように感じたからだ。圧倒され、無言で首を振る。
「そう、ありがと」
言い置いて、外へと駆け出すメイ。キールの同僚の魔導士は、一言も文句が言えなかった。一魔導士見習いにすぎない少女に・・・。
彼女の周囲で、微妙に魔法が変化するのを感じる。と、同時に、先日の経理事務員の苦悩の表情が、頭を過ぎった。
『今年の魔法研究院の経費は例年の同時期の3倍・・・・・・』
ちなみに、これに昨夜の召喚魔法の失敗による建物の修繕費用の見積もり分は含まれていない。
(たしか、長老達が魔法防御の結界で、院の建物の大部分を覆っていたよな?ここは新しい魔法の実験がしょっちゅうだし、実験の度に修復していたら追いつかないからって、) 見習い魔導士の魔法が、少々暴走したくらいで容易にどうこうなる造りではないはずだった。従来は。
彼はその、ちらりと浮かんだ疑問を、すぐに忘れた。
眠りの女神の誘惑は、いかな美女にも勝るのだ。
魔法研究院の生真面目な経理事務員と、王宮の文官達の苦悩の一因でもある少女は、保護者である緋色の魔導士の姿を求め朝から走り回っていた。
「なんだって、今日くらい、きちんと部屋で休んでないのよ!馬鹿キール!」
時は、既に昼をすぎていた。
心配に空腹もあいまって、メイの機嫌は最悪だった。
魔法研究院のキールの部屋を始め、王宮の書庫はもちろん、「この忙しいときに行くとは思えないけど・・・、念の為」と森まで探しにも行った。
キールと初めて出会った、彼がメイを呼び出した部屋だって覗いて見た。さすがに、昨夜や召喚したドラゴンが壊した部分の修繕はまだだったが、魔法陣等の後始末は終わっていた。(一応、あいつらも人の話しは聞いていたみたいねー)
が、いない。
「北の砦の作戦の相談に、シルフィスか隊長さんのところに行っているとか・・・・・・」
その時には、(・・・でなきゃ、許さない!)くらいの心境にはなっていたと思う。
しかし、いない。おまけに2人とガゼルまで留守だった。
「もう一度、念の為!」と再度キールの部屋を訪ねたときは心配に空腹、さらに不安もあいまって、「こんなに心配させて!」と八つ当たり的な怒りまで感じていた。
それが、ドア破壊未遂の一件である。
不安と怒りの真の理由。
『帰らないつもりだから』
自分が口にした、この言葉。それに対するちゃんとしたコメントを、まだキールからもらっていなかった。
「あたしがいて、迷惑じゃない?少しは、うれしいと想ってくれる?うるさい奴だけど、いると・・・いた方が楽しいって、想ってくれてる?」
・・・あたしがそう想っているみたいに・・・
眠って、その問いかけが届かないから、小さな声でそう言えた。
普段なら、キールに速攻で馬鹿にされそうだから、言葉にしたことはない。
「う・・・ん・・・」と寝返りを打ったその声が、肯定の返事に聞えたようで、その時は嬉しかったのだが・・・。
季節が変わり、10月になってメイの周囲は、にわかに慌ただしくなっていた。
隣国でもある北のダリス王国の動きが、水面下で激しくなってきたのもその原因の一つだろう。
クラインの皇太子、セイリオス・アル・サークリッドに勧められた特別任務に就く事を決めた。それも忙しくなるきっかけの一つだったのは間違いない。
特別任務の準備の為に、与えられた1週間。
メイはそれを全て休暇と自習に当てると決めた。
が、そのたった一週間足らずの短い期間に、彼女の周囲に少し信じられないくらいのトラブルが続出したのだった。
最初に、シルフィスが訓練の最中に怪我をした。
次に、殿下の情緒不安定。
どちらも心配だった。強い強いと思っていた人たちが、ふと、不安げな顔を自分に向ける。メイは気付かないふりをした。
それが、『礼儀』というものだと思ったから。
自分なら、強がりが崩れる瞬間なんて、誰にも見せたくはない。
人には決して踏み込まれたくない境界というのがあるのだ。それを侵してはいけない。 そんな思いが、気付かないふりをさせた。
だが、なによりもメイを動揺させたのは、昨夜のキールの不可解な行動だった。
もともとキールは責任感の強さは、半端ではない。自分の義務を疎かにすることをなによりも嫌がる。
それが、自分自身にとって不利益になることでもだ。
「ほんっとーに、頭、堅いんだから!」とあきれながらも、あそこまで徹底していると悔しいが頭が下がる。
それが、この大切な時期に、自分の研究を優先させた。
そのことが、妙に引っかかった。
(なんだってこんな大事な時期に、あたしを戻す研究を続けるの?急ぐの?あたしも、働けるんだよ!心配だから?それとも、役に立つはずなんかない、足を引っ張るだけだって想っているから?保護者の義務感?あたしだって、誰かの役に立ちたいよ。・・・それが自分の大好きな人たちの為なら、なおさら・・・)
だけど・・・。 パンパンとメイは自分の頭をはたいた。
「あーっ、やめやめ!みんな空腹が悪い!ぐちゃぐちゃ考えても、ろくなことにならないんだから!」
そんな事を女々しく考え出す自分が、なんだかいやだった。
自己憐憫は確かに心地よい。だが、自分に都合の良い何かを期待して、努力を怠るなんて、普段のメイの美意識に反した。
「やっぱり、何か食べよう。『腹が減っては戦はできぬ!』ってね」
それから自分のできることを考えればいい。
『できることからこつこつと!ですわ』
ディアーナの言うことは正しい。この場合は・・・という注釈がつくが。
確かに落ち込みそうなときには、できることから片づけていくに限る。
それが、この半年で身につけたメイの生活の知恵でもあった。
(甘〜いお菓子は、乙女のパワーの源よね)
そろそろ、お茶の時間だ。
ディアーナの部屋に行けば、きっと歓迎してくれるだろう。
『一人でお茶は、つまらないんですもの!』そう笑って迎えてくれるはずだ。
あの、妙に庶民的なお姫様と話していれば、自分もいつもの自分に戻れるはずだ。
それから、シオンを訪ねればいい。
自分が怒っていた理由は、治癒魔法で回復させたとはいえ、キールの健康状態に不安が残ったからだったはずだ。それなら不安を消せば良い。
あのスチャラカ魔導士は、人格はともかく、腕と知識は信用できる。
何か、良い手段を教えてくれるだろう。消耗しすぎた魔力と体力を効果的に回復させる方法を・・・。
メイは王宮に足を向けた。
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