夢を見た。
おおきな目。いまにもこぼれ落ちそうなくらいの。きれいな茶色の瞳。
それががみるみるうちに潤んで、俺のことをじっと見つめていた。
まるで、愛しいひとをよぶように、だれかの名を呼ぶ。
それはまるで光の渦、そのなかに巻き込まれて。
聞こえない、届かない、でも。
俺はまるで自分がよばれたように、どきりとして、その瞳を見つめ返す。
肩先で揃えられた茶色い髪、女にしては短い。
足を剥き出しにした、はしたない服。見たこともない、まるで異国の装束のよう。
俺は……おまえなんか知らない。
なのに、視線をはずせなくて……。頬に光っているのは涙だ。
泣くなよ……。おまえが泣くのはいやなんだ。
手を差しのべようとしたとたん、
いきなり夢から覚めた……。
朝の光。浄化の光。窓辺に差しこんでいる。ちゅんちゅん、と鳥の声きこえている。
「キールう、起きてくだしゃいよう。おかあしゃまがよんでますよう」
いつのまに、アイシュが、兄さんがおれのこと覗きこんでいた。
おれは目をごしごしこすりながら、ベットから起き上がる。
おれ達は双子で、だから二人とも6歳で、春から村に一つだけある学校に通うことになってる。
だからおれはもう一人でちゃんと起きなきゃいけないんだ。なのに、実際はいつも起こされて…だめだなあ、おれ……。
ふう、とため息ついた瞬間、思い出した。
おおきな目。いまにもこぼれ落ちそうなくらいの。きれいな茶色の瞳……。
泣いてたな……。急に胸の奥がきゅんと締めつけられるように痛くなる。
おれは思わず胸を押さえる。
「どうしたんでしゅか、キールう」
心配そうに兄さんが降りかえる。
「だいじょうぶ、なんでもないよ」
おれは首をふる。
「ただ……変な夢見た……」
「変な夢?」
兄さんが顔をしかめた。
「どんなのでしゅ? 怖い夢でしゅか」
兄さんの声はどこか間が抜けてて、でもとてもやさしい。
おれは兄さんが、アイシュがいれば他になにもいらない、満足だった。
兄さんに心配かけたくなくて、おれはちょっと考えてにっこりと笑って見せた。
「ううん。怖い夢なんかじゃないよ。大丈夫」
そう、怖い夢なんかじゃなかった。ただ、思い出すとちょっと胸が痛いだけだ。
どうしてなのか、わからないけど……。胸を押さえていた右手をはずし、そっとみつめる。
この手が……。あの女に届いたなら、どうなったのだろう。
(泣くなよ……。おまえが泣くのはいやなんだ。)
なんでおれはあんなこと思ったんだろう。
もっとはやく手をのばせばよかった、そうしたら……。
どうなったのだろう。
おれは少し後悔していた。でも、……しらない。おれはあんな女、知らないんだ。
そう思うたび、胸が疼くように痛むけど……。
「キールう」
兄さんがおれのこと覗きこむ。
「大丈夫、きっとすぐに忘れましゅよ。そんな夢なんか。ぼくがそばにいましゅからねえ」
そうだ、夢なんかすぐに忘れる。兄さんと遊んでいればすぐに……。
今日はかあさんに新しい魔法を教えてもらうんだった。
風を生む魔法。小さな風を起こして、紙飛行機をとばそう。
兄さんと……。
「兄さんいこう!」
おれは寝巻き姿のまま、部屋のドアをいきおいよく開けた。こんな格好じゃかあさんに怒られるなんてこと、忘れて……。
そう、忘れた。
あの夢のことも、アイシュのいうとおり。俺は、ほんとうに全部忘れたのだった……。
頭痛がする。あまりよく眠れなかったせいかもしれない、だがそんなことはいまに始まったことじゃないし。
眠れないのも俺だけではないはずだ。現在ダリスへの偵察と銘打った、潜入作戦が着々と進んでいた。
この作戦に携わるすべての人間、殿下までもが、眠れない夜を過ごしているに違いなかった。
でも、俺の頭痛の種はこれだけではなくて……。
「ねえ! キール!」
ばたんと、勢いよくドアが開いた。
「ねえ、ねえ、あたしの魔道書知らない? ほら! あんたがダリスにいく前にぜったいに覚えておけっていっていた、治癒呪文と防御の呪文ががいっぱい載っていたやつよう。すっごい分厚くって、すんごい重いやつ。それで字がすごい細かいのよねえ。あたしさあ、あれを開くと一行目見ただけで眠くなっちゃうのよねえ。ぐっすりよ。じつはあれほんとは睡眠魔法だったりして、なあんて。あはは。なにようこれ、この本の山。もう、なんだかわかんないよう。赤い表紙だったわね。うーん、ていうかどす黒い血みたいな色。あれ、ちがったっけ。魔道書ってどれもにてるんだもん。うーんと、蒼い表紙だったっけな。キールちょっと手伝ってよ。れれ、緑の表紙だっけ。ああ、もうぐちゃぐちゃ」
俺の机の上に積んでいる魔道書、俺にとってはこれでもちゃんと整理してあるつもりの……が、ことごとく床の上に滑り落ちていく。
「あはは、ねえ、キールこれみてよ。この本の挿絵、ははは、へんなのお、ねえ、キールったら」
ひらひら、と片手をふりながら、たのしそうに笑っている。いい気なもんだ。
お茶ぐらいゆっくり飲ませろ。俺は固いソファーから立ちあがる。
「たのしそうだな、芽衣」
皮肉のひとつでも言ってやりたくなる。
「うん。たのしいよ。いつも」
振り向きもせず芽衣は答える。
「毎晩よく眠れているようで」
「うん、睡眠は美容にいいっていうじゃん」
俺は芽衣の背後にぴたりと立つ、そして耳元でぼそりとつぶやく……。
「俺の貸した魔道書、安眠枕にしてか?」
「ひい! あ、あたしが勉強の途中で寝ちゃったって、どうして知ってるのよ。あんたみてたわね」
「馬鹿か! おまえが自分で言ったんだろうが。ついでに、いっておくと。おまえが探していた、すっごい分厚くって、すんごい重くって、すごい字が細かくって。一行見ただけでおまえを眠らす、俺がダリスに行く前に必ず覚えておけって言った、治癒呪文と防御の呪文が載った、魔道書。おまえの足元にあるぞ。しかも、それ、おまえ踏んでる……」
「ぎえぇ。ほんとだー。キールあんた、それを先にいいなさいよ」
潰れた蛙みたいな声出して芽衣が叫ぶ。
馬鹿。俺は、深いため息をついた。俺の本当の頭痛の種はこいつだ。
俺が間違えて、異世界から召還した女……。藤原芽衣、まるで古文書に出てくるような不思議な文字の名前をもつ。
まあ、俺にとってはこいつ本人の方がもっと難解で理解不能なんだが。
彼女は二日後にダリスに潜入する、道案内の少女に気に入られた、というそれだけの理由で。
この国の人間でもないのに……だ。なんだって、そんなむちゃなこと引きうけるかな?
俺は断ると思ってたんだ。いや、断ってくれと思っていた。
俺がこいつを、間違えにしろ召還してしまったからには、こいつのことはすべて俺の責任であるのだ。
ちゃんともとの世界に帰すことが俺の使命、いや義務である。それなのに、こいつに、もしなにかあったら……俺は。
命ひとつぶんの重み、責任。俺は近頃そんなことをつくづくと感じてる。
たとえば、手の中で。うまれたての卵を、壊さないようにずっとあたためつづけて。
このまま無事になにごともなく孵ってくれって願ってるのに。考えてるほど、ものごとはうまく進んではくれない。
当の卵の中のひなは、まだ成長もしてないうちから、卵の殻をけ破ろうとしてたりする……し。
「おまえさ、ほんとに大丈夫なのか?」
さっきから何度も飲み込んでいた言葉が、ふと口をついて出た。
「んー。なんか言ったあ?」
気の抜けるような返事。まったく。こいつは、こういうやつなのだ。
俺がこんなに心配しているの、絶対に気づかないだろう。
俺はずっと気がかりで、落ちつかなくて、眠れない夜を送っているのに……。
こんなに、他の誰かひとりのことを考えつづけているなんて、うまれて初めてだ。兄貴……アイシュ以外は。
「ねえ、キール」
芽衣が呼んだ。床の上にぺたりと座り込んで、さっきまで足げにしていた分厚い魔道書を覗きこんだまま。
足を剥き出しにした、はしたない服。こいつの世界の服、はじめてあった時の服。みたこともない……筈なのに何故か妙に懐かしかった……。
「あたしのこと心配しなくていいからね!」
「え? あゞゞゞ」
不意打ち、くらった。俺は急に息が詰まってごほごほと咳き込む。
「大丈夫、だってあたし自分で決めたんだから」
俺を振り返って、笑う。
「だってね。あの子あたしのこと選んでくれた、うれしいじゃんそういうの。おーし、いっちょやってやろうじゃんって気になるじゃん」
その笑顔につり込まれてなにもいえなくなる。
「お、俺はべつにおまえがそういうなら……かまわないけど」
ほんとは。やめろ、っていいたいけど。いえない。
「あんた、気にしすぎなのよ。あたしのこと、責任感じてるのかもしんないけどさ。ま、いつか帰れればいいかなっ、ぐらいにしかあたしはかんがえてないからね。大丈夫よ。キール、あたしね。この世界が、この国が好きよ。異世界から来たっていう、わけわかんないあたしのこと、みんな受け入れてくれた。やさしくしてくれた。あたし、こっちにこれてよかったって、ときどき思うの。だって、そうしなかったらみんなに会えなかったもん。あたしね、みんなのこと大好きだよ。キール、あんたのこともね。だからあたし、守ってあげるよ。ふふっ、まかせてよ!」
「ばーか。なにいってるんだ」
俺は思わずつぶやく。
「あっ、キールったら。赤くなってる、あんた芽衣ちゃんにほれちゃったわねー。いやだあ、あたしって女前なんだからあ」
「ばーか」
つぶやく。火照った身体を冷やそうとして。とり散らかった考えまとめようとして。
そうだ、こいつ馬鹿なんだ。きっと、むかしっから生まれた時から。だから仕方ないんだ。
まっとうな考えのままじゃ、こいつには太刀打ちできない。俺にはこいつの考えまったくわからない。
もしかしたら、すごく損な性格なのかもしれない。でもそんなことこいつにはどうでもいいんだ、自分がそうしたいからそうするだけで、
ほかのこと何も考えちゃいないのだ。俺には絶対に真似できない。こいつは、こういうやつなのだ。だから、かなわない。
俺はなんとか心の中で、納得しようとして。いや、言い聞かせて、芽衣の方を見る。
肩先で揃えられた茶色い髪、女にしては短い。それが、西向きの窓から差しこむ夕日の色を浴びて……。
そうだな”女前”ってことばおまえには似合ってるよ。
「芽衣」
芽衣が俺をみあげる、おおきな茶色い瞳。
「その本貸せ」
分厚い魔道書を拾い上げる、埃が舞う。
「俺が教えてやる、みっちりしごくから覚悟しとけよ」
にやり、と笑って見せる。
「えー。かんべんしてよー」
頭のてっぺんから甲高い声なんかあげて。でも、勘弁なんかしない。
「何言ってるんだ、おまえだって死にたくはないだろう」。
「まあ、そりゃそうだけど」
「困るんだよ、おまえに死なれると」
そうだ、俺が困るんだ。おまえは死んでも後悔なんぞしそうにないけどさ。俺が嫌なんだ、そんなの……。
だから。
「まあ。徹夜覚悟で勉強すれば、おまえにも使えるようになるから。大丈夫だ。いくぞ」
「キールの鬼!」
「なんとでもいえ」
心配しているより、こっちの方がずっといい。俺は窓の外を見た。夕日が沈むところだった。もうじき夜がやってくる。そして……また、朝が来る。
ダリスへと向かう馬車の中で、芽衣は眠っていた。仕方ない、人目をしのんで早朝に出立したのだ。
それでも、殿下や姫は見送りに来てくれていた。さすがに芽衣は少し泣きそうになっていた。
外はまだ薄暗い、それでもはるか向こうの空に厚くどす黒い雲の渦があるのが見える。
ダリスの方角だ。馬車の向かう先。俺たちの向かう先。あの雲の下、なにが待っているのだろう。
芽衣は俺にもたれて眠っている。微かに寝息が聞こえている。
向かいではシルフィスが少女を抱きかかえたまま、芽衣を見つめている。少女の視線も芽衣に注がれている。
その隣では、レオニスが腕組をしたまま、窓の外を見つめている。皆押し黙ってなにもいわない。
いや、もともと三人とも無口な性質だから仕方ない。それにしても、そろいも揃って。少し息苦しい。
芽衣はまだ眠っている。呪文を覚えるので、昨夜も遅かったのだ。仕方ない。
まるで、子供のような顔をして眠っている。睫毛が思っていたよりずっと長くて……。
その閉じた目がひらくとき、馬車がダリスにつくとき、俺は何を思うのだろう。そしておまえは……。
芽衣が目を覚ました直後、馬車がダリスへと到着した。
芽衣は、俺にもたれ掛かっていたのに気づいて、照れたようにへへっと笑い。
少女を抱き上げると、馬車の外へと飛び出した。
空は時間がわからないほどに、薄暗い。
目的地から少し離れたこの場所、ここまでだ。ここから先俺たちは行けない。
待ってることしかできない。
「なに、怖い顔してんのよ」
芽衣があきれたように俺を見る。
「おまえ、呪文はちゃんと覚えてるだろうな。いいか、危なくなったらすぐに戻れよ。どうにもならないと思ったら、すぐに俺たちを呼ぶんだ。合図はおしえただろ。覚えてるか」
うまい言葉が、みつからない。口をついて出るのは、説教じみた事ばかりだ。
「まったく。あんたの方が落ちつかないわよね」
芽衣がため息をついて、足元の小石を蹴飛ばす。
「しょうがないわね。おまじないをしてあげるから、目を閉じてよ」
「え、おまじない?」
俺は訝しそうに芽衣を見る。
「いいから、目とじてよ」
意味がわからないまま俺は仕方なく目を閉じた。
息がかかるくらい芽衣の顔が近づくのがわかる、そして頬になにか暖かいものが触れて。
!
「おまえ! なにしてっ!」
俺ははっとして、目を開く。
「あはは」
芽衣は笑いながら駆け出した。
「じゃあ、いってくるね!」
手を高く上げて、合図する。少女の手を引きながら、駆けていく。
俺は頬にそっと手を触れた、暖かい。ぬくもりがまだ残っている気がした。
「彼女は強いですね……」
いつのまにか傍らにシルフィスがいた。
「こちらの方が励まされているなんて……」
ああ、と俺は頷く。
芽衣。いっとくけど、俺は神に祈ったりはしないからな。俺はあんまり信心深くはないんだ。いまさら神に頼っても、遅いだろ。
だから、自力で帰ってこい。神よりも呪文よりも俺には信じられるものが、ひとつだけあるかもしれないんだ。
それはおまえの存在だよ、すべての常識をふっ飛ばして存在している、おまえの。
だから、帰ってこい。ここに、俺はずっと待っているから。
どのくらい時間がたったのだろう。
薄暗い空の一部があかるくなったかとおもうと、その瞬間。
ほぼ真下からいきなり火の手が上がった。みるみるうちに周囲の建物をのみこんでいく。
「隊長! あの場所は!」
シルフィスが叫ぶ。
「ああ、いくぞ!」
レオニスの合図の笛の音が遠く聞こえる。
俺はもう、とうに駆け出していたのだ。
走る。俺はなぜ走っているのだろう。
何故。たった一つのことを知るために。
あいつのこと。
あいつが、生きているか、否か。そのどちらかを。
ひとつでしかありえない。そのどちらかを。
ただ知るだけに、走って。
馬鹿! あの馬鹿! だから言っただろう。
なのに、心配するなとか、おまじないだとか。人の事なんかどうでもいいんだ。肝心な自分のことおざなりにしてるから。
こんなことになるんだ。
火はさらに燃え盛って、俺はその中を突き進んでいく。
建物の前を通りすぎ、角を曲がろうとしてなにかにぶつかった。
俺の腕の中めがけて、誰かが倒れこんで……。
道に転がり込んだまま、どうにか目を開いて、茶色い髪が目の前に広がっているのを見た。
女にしては短かすぎる髪の……。でもこの身体に感じたやわらかさは絶対に女のものでしかありえなくて……。
こんな女、他にはいない。
「芽衣か……」
俺はそっと声に出してみる。声に出したら消えてしまうのではないかと思いながら。
「キール」
まるで、祈るような気持ちで俺は芽衣を覗きこむ。
「キール」
泣き出しそうな声。
芽衣は確かにいるのだ、この腕の中に。
「あたしはいいから、はやく助けてあげて……。まだ中に人がいるの」
「大丈夫だ、いまみんな向かっている。だから、だまっていろ」
「キール。あたしよかったのかな。これで……。これでいいのかな」
「ああ、もう大丈夫だ。きっと、だからもう、気にするなよ」
身体に感じていた、重い邪悪な気配はもう感じない。たぶんすべてが終わったのだ。
「でも、アリサが……」
俺は芽衣の言葉をさえぎった。
唇で、その唇を塞ぐ。
芽衣は抵抗しなかった。
「黙ってろよ。いま傷を治してやる。話しはそれからだ」
俺は芽衣を抱き起こすと、そのまま芽衣を抱きしめたまま、呪文を唱える。
白い光。癒しの光。その光が二人を包み込む。足に出来た痣も、破れた服の間から覗く傷もみるみるまに消えていく。
「キールが、呼んでる気がしたの、だから、こっちに走って……」
俺はもう一度、その唇を塞ぐ。
腕に力を込めて、震える身体を、強く抱きしめて。
もう、離したくないと思いながら……。
燃え出したのは大樹だと、芽衣は言っていた。
炎はすべてを焼け尽くし、3日後にやっとおさまった。
あとに残ったのは、瓦礫だけ。ほかにはなにもない。
焼け跡を俺たちは見つめていた。なにも無くなったが、これからまた新しく生まれ変わっていくのだろうと思いながら。
俺は急に耳鳴りを感じた。なにか声が聞こえる、呪文のような。
……選ばれし……異界の……よ……いま……そ……道を……開かん……
選ばれし異界の? なんだ。
それと同時に芽衣が急に耳を押さえた。
「やだ、耳鳴りが止まらないの……」
俺は、はっとする。これはもしかして。
「芽衣。ゆっくり精神を安定させて、力をコントロールするんだ」
芽衣が頷く。そして耳を澄ますように目を閉じた。
身体に強い力を感じる。これはいったい……。
「あのね、みんなあたし帰れるみたい」
芽衣の目はなぜか潤んでいる。
「むこうから、あたしの世界の音が聞こえるの……」
俺にはすべてわかった、なんらかの強い術力を持つものが、いまその力を使って芽衣を元の世界に帰そうとしているのだ。
何が……まさか大樹が……。
「芽衣!」
俺は叫んだ。ありったけの声で。
でも……。この機会を逃したら次はないだろう。
「キール?」
芽衣の声が聞こえる、まだいまなら届くのだ。
でも、頭の中に声がする。
帰るために努力してきたならその方がいい。俺が呼び出したのが事の発端だったのだ。
いまなら、すべてをなかったことにできる。
すべてをなかったことに……。何を……。
忘れることができるというのか……。あいつを……。
「キール!」
芽衣が呼んだ。俺の名を。俺のことを
俺は芽衣を見た。
目の前で、光のなかに包まれていく姿。
これは、いつか見た夢。
夢……。
いつか見た夢。
おおきな目。いまにもこぼれ落ちそうなくらいの。きれいな茶色の瞳。
それががみるみるうちに潤んで……。
「キール!」
俺の名を呼ぶ。
肩先で揃えられた茶色い髪、女にしては短い。
足を剥き出しにした、はしたない服。見たこともない、まるで異国の装束のよう……。
忘れたはずの夢。
おおきな目。いまにもこぼれ落ちそうなくらいの。きれいな茶色の瞳。
嘘だ。忘れていたなんて……
そんなの嘘だ。忘れようがない、わすれられない、あんな印象的なまなざしを。
それががみるみるうちに潤んで……。
忘れたことなんて無かった。
いつも、心の中にあった。ふとした瞬間、いつも思い出していた。
あのとき、召還の実験のとき。
オーブのなかに見えていたのは、あの茶色の瞳。潤んだ二つの双眸。
俺がおまえをよんだ。
失敗なんかじゃない、偶然なんかでもない。俺が……。
「キール?」
頬に光る涙のわけを知りたかった。
エーべの女神よ、あなたの力に逆らってもいいですか?
俺はいくら罰をうけてもいい。でも、いまは許して。
異世界間の理を破った罪ならいくらでも、受けるから。でも、これは貴方の導きでもあるんだ、だから今は許して。
芽衣おまえの未来を変えてしまってもいいか? いや、これこそがおまえのひとつしかない未来だと俺は信じていたいんだ。
頬に光る涙のわけを……。その答えを……。
俺は手を伸ばす。あのときつかみそこなった夢に手をのばす。
光の壁この手で打ち砕いて……。
芽衣の手を引き寄せる……。
目の前で光がはじけて。
頬に光る涙のわけを知りたかった。手を伸ばしてつかんで引き寄せて、抱きしめてこんなふうに。
ぬくもりを知りたかった……。
泣くなよ……。おまえが泣くのはいやなんだ。
「いくな……俺を置いていくな。おまえがいなくちゃ駄目なんだ。俺をひとりにするなよ……」
耳元でつぶやいて……。
「キール」
芽衣が俺の名を呼ぶ。背中に手をまわして、俺のことを抱きしめる。
夢から覚めたあと、まるでひとり取残されたような気がして、寂しくてたまらなかった……。
子供の頃、いつも俺のそばには兄貴がいた。
でも、違うんだ。意味が違うんだ。ずっとずっと、俺が死ぬまでそばにいて欲しいのは。
兄貴じゃない。おまえなんだ。
怒ったり、泣いたり、笑ったり、数秒のあいだにころころと表情を変える、落ち着きのなくて、ドジで馬鹿でどうしようもないおまえなんだよ。
おまえしかいらないんだ。
夢を見たあの日、あのときからずっと、おまえに恋をしていた。
「キール。あたし、もう帰らない。どこにもいかない。ここにいるよ……」
芽衣の言葉が俺の心の中に響いた。
そしてそのあと、俺たちが耳にしたのは。
みんなの歓声と、拍手の嵐だった……。
「うわあーすごい。これ全部キールがつくったの?」
目の前のバスケットの中に敷き詰められた、サンドイッチに手をのばしながら芽衣が声を上げる。
「ちえ、くやしい。こういうこと、あたしよりキールの方がぜったいに上手なんだもん。今に見てなさいよ。アイシュ先生のもと芽衣さまが完璧な料理人に変身するんですからね」
「なってもらわないと、困るな。せめて式をあげるまでにはさ……」
うー、と芽衣が唸る。
ダリスとの平和協定が結ばれたあと、行き来が自由になったその地に、今俺たちは来ている。
大樹にもたれて、平和な昼食のひとときだ。
あの焼け跡から、芽を吹いたこの木はなぜだか1年もたたないうちに大樹とよばれるにふさわしい木となっていた。
「やっぱり、魔法の力かな。ふしぎだねえ」
「ああ、そうかもな」
俺は答える。エーべの女神の力かな。と俺は考えて、同時にどきりとする。あんなこと口走って怒ってるかもな。
罰あたるかなやっぱり……。
「ねえ、キール。不思議っていえばね、あたしわかったことがあるんだ!」
芽衣はうれしそうに俺を見上げる。
「なんだ?」
「ふふ、夢よ。夢。あたしの夢の中に出てきた人がだれだかわかったんだ。あのときに……」
「夢? あのとき?なにいってるんだ?」
「ふーん。いいよ。わかんないなら教えてあげない。でも、もういいや。ねーアリサちゃん。それからね。罰は当たらないから気にしないようにってさ」
「罰って! なんでおまえそれ……」
「ふふ、おしえてあげないよ。ねー」
「おい、芽衣!」
夢?
俺はふと思いつく、もしも二人が同じ夢をべつべつに見ていたとしたなら……。
誰がこの夢をみせていたというのだろう。
でも、いま思うことは。願うことはただひとつだけ。
この夢をひとつに……。
別々にみていた夢を、ひとつに。
同じ夜を、同じ朝を。ずっとずっといつまでも……。
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