笑顔が見たいから

松前杏子様

ライン

笑顔が見たいから。
ただそれだけなんだ。
理由なんて、ない。
お前の笑顔が見てみたい。
・・・・・・だからどうか、俺の前で笑ってくれ。

ふと、一つのことに気づく。それは広場の噴水の前であったり。書庫の前であったり。湖であったり。騎士団の前であったり。
だけど、絶対自分の前ではみれないのだ。
そう認識するたび、心のどこかがちくりと痛む。キールは自分の胸を不思議そうに見下ろしながら、自分の変化に首をかしげる。
前は疼くようなささやかなものだったのに、今では「痛い」と感じている。これは一体どういうことだろう?自分は何かおかしいのだろうか?
だけど、思考の淵に沈む前に、キールはまた意識を逸らされる。彼の視線の先をいくのは、枯葉色の髪を持つ少女。一時もじっとしていないで、軽やかに歩く。
自然に、目がひきつけられる。
キールは声をかけることも出来ないまま、視線で彼女を追った。その内、彼女は知り合いにあったのだろう、少し驚いたような顔をして、そうして――鮮やかに微笑んだ。

ずきり、と胸が痛む。

知らず、服の上から胸を押さえ、顔を歪ませる。自分には絶対彼女が見せてはくれない、笑顔だった。
彼女が会ったのは、キールでも知っている、筆頭宮廷魔道士のシオンだった。シオンはキールに気づくと、手を振って呼びかけて来た。
「キールじゃないか。そんなところにいないで、こっち来いよ」
彼の呼びかけで、彼女もキールの存在に気づく。途端曇る笑顔。眉根を寄せて、いかにも嫌そうな顔をする。

胸が、痛い。

だがキールは表面上は一切そんな事は出さずに、彼女とシオンに近づいた。そうして、唇から紡ぎ出る言葉は、何故か己の意思にそぐわぬもの。
「おいメイ、課題は終わったのか?」
彼女は露骨に顔をしかめ、そっぽを向く。
「終わったわよ・・・・もう、キールはそればっかり!」
二度と、キールの方をみようとはしない。キールは、もう彼女から笑顔を引き出す事は無理だと悟った。
ぼんやりと、未練がましくそれでも彼女を見る。シオンがなにかいつもの冗談でも言ったのだろう、メイが怒りつつも、それでも笑いながら――それがたとえ苦笑に近いものであったとしても――シオンと話をしている。

痛い。
イタイイタイイタイ。

そこにいる事がたとえようもなく苦痛に思え、キールは何も言わずに身を翻した。それに気づいたシオンがなにか言った。だが、メイは、何も言わなかった。
引き止められる事を期待していたわけじゃない。だが、その事実は本当に本当にキールの胸を締め付けるから、だから、彼は走って彼らの前から姿を消したのだった。

部屋に駆け込むなり、キールは鍵をかけてカーテンをひいて、椅子に腰掛けた。ずらりと並んだ本棚から、今一番気になっている魔道書を引っ張り出す。ライトを点けると、震える手でページをめくる。
この空間こそが、彼にとって一番落ち着くものだった、否、はずだった。今日に限って、全くそれらは彼の心をなだめてはくれなかった。反対に、どこまでも寂しい思いをさせる。
ここまで、自分を惨めだと思った事はなかった。だが、今はすべてを投げ出して、泣き叫びたいほど自分は孤独だと、痛烈に感じた。
それでも、彼は泣けなかった。泣く事を、知らなかったから。
泣く、という事に対して、心のどこかが規制をかけているのだ。それはもう、今では霞がかかってしまった記憶の時から、続いているものだった。
だから、彼はただただ拳を握り締めて、目の前の書物に意識を集中するしかなかったのだった。

――揺れる記憶。
初めて会った頃の、彼女。
いつも怒って、騒がしくって、ああ、これが「彼女」なのだと、認識した。
だけど、ある時突如思い知らされる。
それが、「真実」の「彼女」ではないということに。
誰かに見せていた笑顔。
それはディアーナ王女であったかもしれない。シオンさまであったかもしれない。兄貴であったかもしれない。
とにかく、自分ではない誰か。
その人に優しい、労りの笑顔をあげていた。
その時も、自分はそんな彼女に背を向けて逃げ出した。
認識したくなかった。認めたくなかった。
自分がずぅっと思っていた「彼女」は「真実」ではなかったということを。
自分が、誰よりも一番彼女のそばにいたというのに・・・・・
惨めだった。悔しかった。
だがそれと同時に、そこに救いを見た。
・・・・・・もし彼女がこの自分にその笑顔を見せてくれたら?
そうしたら、その時は。その時こそは。
自分も心の底から笑える時が来るのかもしれない・・・・
全ての記憶が泡となってはじけ、そうして消えていく。心の奥底に仕舞い込んだ、記憶。それが、今再び浮上する。

「キール・・・・・・?」
キールが目を覚ますと同時に、彼女の心配そうな顔が飛び込んで来た。彼は頭がもうろうとしていて、正確に状況を把握できなかった。ただひたすら、頭が重い。
「う・・・・メイ・・・・・・?」
「もう・・・ほんとばかなんだから!」
彼女の次のセリフにムッとしたキールだったが、次の瞬間呆けてしまった。
「・・・・・・・心配したんだから」
聞こえないほどの小さな、声。今にも泣きそうな、彼女。彼には何も、言えなかった。
「3日経っても部屋から出てこないから、心配してドアを開けようとすればかぎはかかっているし・・・入ったら入ったで、あんたはぶっ倒れているし・・・・あたし・・・・・・ホント・・・・・・」
要するに、あの時意識を集中し過ぎて、そのまま日にちが経ってしまったのだろう。
言うだけ言ってあとは黙りこくってしまう彼女に、キールは恐る恐る手を伸ばした。そうして、そっと、自分の側に引き寄せる。
信じられない。彼女が、こうして、自分だけを見ている。自分を心配してくれている。
だけど。
「・・・・・・メイ、笑ってくれ」
「え?」
「笑ってくれ」
キールは執拗にそれだけ繰り返した。彼女が怪訝な顔をする。当然だろう。本人でもそう自覚がある。でも、とめる事は出来なかった。
彼女の肩を掴む腕に力を込め、そうしてただその言葉のみをささやく。
「笑ってくれないか、メイ」
「・・・・・・・・・こう?」
当惑しながらも見せてくれた彼女の笑顔はひどくぎごちなかったけれども、キールが切望した、まさしくそれであった。
「・・・・・・すまない」
キールは脱力したように、そのままずるずると床に座り込んだ。
これで、自分も人になれたような気がする。独りでも、自分の足で立っていけそうな気がする。

ただ言葉もなく座り込むキールを見下ろして、メイはそっと自分も腰を下ろした。彼のそばにしゃがみこみ、頭をなでなでする。そうしてそのまま頭を抱え込む。
「・・・・・・泣いて、いいんだよ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
「泣いていいんだよ、キール?あたしはずぅっと笑っていてあげるから・・・・・」
はじめは微かに聞こえる、すすり泣く声。声を押し殺して泣いている。それが次第に鳴咽へと変わり、そうしてキールの泣き声だけが部屋に静かに響く。
その間ずっと、メイは優しく彼の頭をなで、そうして微笑みながら彼を見守っていた。

「ずっと笑っていてあげるから・・・ずっとあんたのそばで」

ライン

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